日曜朝の礼拝「この時のためにこそ」

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この時のためにこそ

日付
説教
望月信牧師
モルデカイは再びエステルに言い送った。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」
エステルはモルデカイに返事を送った。「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」
そこでモルデカイは立ち去り、すべてエステルに頼まれたとおりにした。(13~17節)エステル記 4章1節~17節

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 スサの都とペルシアの全土に住んでいたイスラエルの民、ユダヤ人たちは大きな悲しみと嘆きに包まれました。粗布をまとい、灰をかぶり、断食して、祈りをささげます。ここには、バビロン捕囚の民が決して信仰を失うのではなく、神の民として歩んでいたことが示されています。

 その中でモルデカイは「苦悩に満ちた叫び声を上げ」ました。自分がハマンの機嫌を損ねていたからである。そう思って嘆かざるを得ません。けれども、敬礼すればよかったということではなく、その後も、モルデカイはハマンにひざまずかず、敬礼もいたしません。私たちも信仰的に考えて取り組み、結果として反発されることがあるでしょう。そこで失敗だったと考えるのではないということです。反発は起こるものであり、まさに忍耐強く祈りながら取り組むことが大切でしょう。断食が繰り返されています。すなわち、主なる神の助けを求めて祈ることです。祈ることこそ、信仰者に与えられている信仰の武具にほかなりません。

 その祈りの中で、モルデカイは王宮の門の前に行きました。後宮の女官と宦官がモルデカイのことをエステルに伝えます。エステルは衣服を届けて着替えさせようとしますが、理由があって粗布をまとっていますから、モルデカイは受け取りません。そこでエステルは宦官ハタクを遣わして、詳しい事情を知ろうとします。ハタクはたいへん忠実にエステルとモルデカイのやりとりを仲立ちします。モルデカイは、事の一部始終、また、ユダヤ人絶滅の勅書についてエステルに説明し、王のもとに行くよう、エステルに告げました。「自分の民族のために」とは、自分がユダヤ人であると明かすようにということです。この時までは隠していましたが、ここで明らかにして、今こそユダヤ人の一人として行動するのです。

 エステルは、たとえ王妃といえども王の前に進み出て自分の願いを申し出ることは困難であると答えます。それに対するモルデカイの言葉が決定的です。「王宮にいて無事だと考えてはいけない」。ユダヤ人を滅ぼす迫害から逃れることができないというのではありません。神の御手から逃れることはできないという言葉です。主なる神の器として用いられることを拒むなら、神があなたを拒まれるというのです。そして、「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」、この言葉によってエステルは気づかされました。偶然だと思っていたこと、バラバラに見えていたことが一つにつながり、歩むべき道が示されます。「この時のためにこそ」、主なる神がすべて道備えしておられたのです。

 エステルは、たとえ召されていなくても王の前に進み出ることを決意します。しかし、それは自分の決意で行われることではありません。主なる神の御心としての確信が必要です。ですから、祈りの中で確かめます。神の民の仲間たちにも祈っていただいて、その祈りの中で神の御心を問うのです。「このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります」という言葉は、おとめマリアの言葉、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」を思い起こさせます。エステルは、主なる神に信頼して、自らを神の御手に委ねます。

 私たち人間は人生の歩みをあらかじめ見通すことはできません。けれども、人生の旅の途中で「あのことはこの時のためだったのか」と気づかされることがあります。そのとき、自分の人生を再発見し、生きる意味を受け取りなおします。自分の人生に、生きて働いておられる神の御手を見いだし、主なる神に導かれ、背負われているものであることを悟る瞬間があるのです。試練や苦しみ、悩みも、今はまだ分からなくても、「この時のためだった」と分かる日がやがて必ず来ます。私たちは、主なる神に自らを委ねて、忍耐強く忠実に歩み続けます。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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