日曜朝の礼拝「十字架につけられ~使徒信条16~」

日本キリスト改革派 鈴蘭台教会のホームページへ戻る

十字架につけられ~使徒信条16~

日付
説教
望月信牧師
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。(18節)
コリントの信徒への手紙一 1章18節~25節

この説教要約には音声ファイルはありません

 使徒パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが」(18節)と言い、十字架は「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(23節)だと指摘しました。私たち人間の普通の感覚、一般的な常識に基づくならば、十字架は愚かなことであり、またつまずきの原因にほかならない、ということです。

 十字架は、教会の建物の上に掲げられ、ペンダントのような飾り物としても用いられます。しかし、十字架が処刑の道具であることを思い起こすなら、ランドマークとして掲げたり、飾り物として用いることは、確かに理解に苦しむでしょう。また、十字架につけられて犯罪人として処刑され、死んでしまった者を救い主や神の子であると信じるとは、愚かなことに違いありません。旧約聖書に「木にかけられる者は神に呪われた者」(申命記21:23)とあり、十字架という木にかけられて処刑された者が救い主であるはずがないと言って、ユダヤ人はつまずきました。こうして、いつの時代も、十字架は愚かであり、つまずきなのです。

 その一方でパウロは言いました。「わたしたち救われる者には神の力です」(18節)、「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵である」(24節)。いったいどういうことでしょうか。これは、十字架を理解する道筋を指し示しています。十字架は、神の力が発揮された出来事であり、私たち人間の理解を超えています。しかし、それゆえ、神の御言葉が与えられて、御言葉を通して神の知恵に聞くならば、理解することができる。聖霊に導かれ、御言葉を通して、神の側から十字架を見るときに、十字架はよく理解できる事柄にほかなりません。その意味で、十字架は、信仰によってこそ理解され、受け止められる事柄なのだと申し上げるべきでしょう。

 十字架は、父のふところにいる独り子なる神が処刑された出来事です。聖書は、それが神の裁き、神の刑罰であったと語っています。神御自身が尊い独り子イエス・キリストを裁かれたのです。そして、それはイエス・キリスト御自身の罪のゆえではありません。主イエスは、私たちの身代わりとして死んでくださいました。私たちへの刑罰を代わって引き受けてくださいました。ですから、十字架は、私たちに下されるべき神の刑罰だったのです。ちょうど子どもを叱る親が、罰として子どもの手を叩く、そのときに、自分の手を子どもの手の上に重ねて叩くようなものです。子どもの手を叩きながら、親は自分の手を叩いて、自ら罰を引き受けている。そのように、父なる神は私たちの身代わりとして主イエス・キリストを罰せられました。こうして、キリストの十字架によって神の義が貫かれました。このキリストを受け入れる者に、もはや神の怒りはなく、神の裁きも刑罰もありません。赦しの恵みがあるばかりなのです。

 使徒ヨハネは言いました。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちのうちに示されました」(ヨハネ一4:9)。キリストの十字架は、私たちの罪を赦す神の愛を表しています。ここに、私たちが信仰の目をもって見なければならない、キリストの十字架の意味があります。十字架は、もちろん処刑の道具ですが、そこには罪の赦しの恵みと神の愛がある。そのことをしっかり見つめることが求められています。

 この十字架の真理と恵みを知って、十字架の愚かさを引き受けて生きる、それが十字架のキリストに結び合わせられた、信仰者の歩みです。この十字架の真理に私たちの新しい人生の土台があり、私たちは、互いに赦し合い、愛し合う幸いな人生へと招かれているのです。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

礼拝に来てみませんか?

鈴蘭台教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。

ホームページからでしたらお問い合わせフォームを。お電話なら078-592-6875まで。お電話の場合、一言「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると、話が伝わりやすくなります。