日曜朝の礼拝「魂の渇きを癒やされる」

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魂の渇きを癒やされる

日付
説教
柴田朋子神学生
サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(7~15節)ヨハネによる福音書 4章1節~15節

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 主イエスは旅の途中、サマリア地方のシカルに来られ、井戸のそばで休んでおられました。そこへやって来たサマリア人の女に、「水を飲ませてください」と頼まれます。当時、ユダヤ人はサマリア人を、歴史的な経緯から、神の恵みから外れた人々と見下し、差別していました。さらに、ユダヤ人の男性が、公然と女性に話しかけることも、よいこととはされませんでした。ですから、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしにどうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」という女の言葉は、主イエスの非常識な行動に驚いて発せられたものでしょう。

 主イエスの「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」という言葉に対し、女は「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」と返します。サマリア人は、自分たちがヤコブの子孫であることを誇りに思っていました。主イエスの謎めいた言葉に、女は戸惑い、苛立ちを覚えたのではないでしょうか。

 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」。聖書において「水」はしばしば、私たちの魂を生き返らせる恵みを表わす比喩として用いられます。「わたしが与える水」とは、渇いてひび割れた人間の心を潤して満たす、平安や喜びを表わしていると言えます。

 このやり取りの中で、女は戸惑いや苛立ちを覚えながらも、この人の言う「水」は、身体だけではなく、自分の存在や魂に関わるものであることを、直感的に感じ取ったのではないでしょうか。「主よ、渇くことがないように、その水をください」。この言葉には、魂の渇きを覚え、平安を得られない自分を、この人が救ってくれるのかも知れないという、希望や期待が含まれています。

 ここで女の身の上に目を向けます。主イエスは「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」(18節)と言われます。この時代、夫が子どもを残さずに死んだ場合、妻は死んだ夫の兄弟か父と再婚するという慣習がありました。女は、最初の夫の死後、再婚した兄弟にも先立たれ、また別の兄弟と結婚しては死別し、というように、五人の夫に次々と先立たれたと考えられます。そうした波乱に満ちた結婚生活から離れ、主イエスと出会った時、女は結婚せずに男性と一緒に暮らしていました。幾人もの夫と次々死別することは、決してスキャンダラスなことではありません。ですが、結婚せずに男性と生活を共にすることは、間違いなく不品行と捉えられたはずです。男性と一緒に暮らすようになったのは、生活のため、あるいは自分の虚しさを埋めるためだったかもしれません。男性と暮らすことで人々から後ろ指をさされても、もはやどうでも良くなっていたのかもしれません。彼女の魂は渇ききっていたことでしょう。

 実は女は、救い主を待ち望んでいました。主イエスは、「それは、あなたと話をしているこのわたしである」(26節)と、自分こそがその救い主であることを明かされます。気力を失って自堕落な生活を送っていた女に、主イエスは、もはや民族も性別も、社会的地位も関係なく救われる、と告げられます。女は主イエスの言葉を信じました。

 現代に生きる私たちもまた、しばしば渇きを覚えることがあります。自分の価値を、お金や社会的な地位、世間の評判といった、この世の基準で測っていれば、その基準が揺らいだ時、自分が価値のない者に感じられます。また、自分の欲望やプライドを満たすために生きているうち、虚しさや絶望を感じることもあります。その時私たちは渇きを覚えることでしょう。

 こうした渇きは、人間の罪深い性質によるものだと、聖書は教えています。主イエスは、神と私たちとを遮る壁である罪を取り除くために、この世に来られました。そして、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と約束されます。この約束を信頼することで、私たちの魂は癒やされ、希望を持って生きることができるようになるのです。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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