日曜朝の礼拝「神と共に歩む人生」

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神と共に歩む人生

日付
説教
望月信牧師
これはアダムの系図の書である。神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた。アダムは、セトが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。アダムは九百三十年生き、そして死んだ。(1~5節)
エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。(21~24節)
創世記 5章1節~32節

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 日本人の平均寿命は、2016年のデータで、男性がおよそ81歳、女性がおよそ87歳だそうです。現在の日本は、平均的にそれだけ長く生きることができる幸いな状況にあります。ところが、この聖書箇所には、もし長生きすることが幸せの目安だとするならば、それはそれは人間の歴史の中で桁外れに幸せな時代があったことが示されています。

 しかし、この系図で注目すべきことは、長い年数だけではありません。一つには、「アダムは……自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた」とあります。これは、アダムが神にかたどられ、神に似せられて、「神のかたち」に造られており、アダムの子もその「神のかたち」を受け継ぐ存在だったということです。人は皆、神と向かい合う者、神を礼拝して生きる霊的な存在として生まれるのです。けれども、アダムの子が受け継ぐのは「神のかたち」だけではありません。「自分に似た、自分にかたどった」とは、アダムの罪を受け継ぐ者として生まれて来る、ということでもあります。人は皆、生まれながらに罪人なのです。

 そのことが、この系図で注目すべきもう一つのことと結びついています。「アダムは九百三十年生き、そして死んだ」とあります。セトやエノシュ以下も同様であり、この系図には「そして死んだ」と繰り返される不気味なリズムがあります。通常、系図に「死んだ」とは記されません。「死んだ」と記されることには意図があると考えなければなりません。

 この点で興味深いのは、777年生きたレメクが自分の子に「慰め」と名付けたことです。「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」という言葉には、レメクの悲鳴があります。人の罪のゆえに大地は呪われました。それゆえ、労働にも子どもを産み育てることにも苦しみがともないます。また、人は最後に塵に返るのであり、そのむなしさを味わわなければなりません。その中で700年、800年と生きることには、耐え難い苦しみがあるのではないでしょうか。人生の長さは、それ自体が人生の祝福を意味するものではなく、むしろ苦痛の長さをさえ意味しうる。聖書はそう言うのです。

 ただ一人エノクは、当時の人々の半分にも満たない、365年という短い生涯でした。人生の幸いを人生の長さではかるならば、エノクの人生は不幸なものだったでしょう。しかし、このエノクについてだけ、「そして死んだ」と言われません。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」。エノクは神に取られて神の御国に移されたのであり、彼の人生は死で終わるむなしいものではなかったと言いたいのです。短い人生であっても、神と共に歩み、彼には祝福が豊かに与えられました。「神と共に歩む」ところにこそ、人生の真の幸いと祝福があります。

 たとえ三十年、十年、いや一年、あるいは一日の人生であったとしても、「神と共に歩む」幸いな人生があります。そして、「神と共に歩む」ことが大切であるとは、長く生かされる人生においても同じです。長い人生の年月がむなしいものとならないために、「神と共に歩む」ことが必要です。また、「神が取られたのでいなくなった」とは、エノクの人生の終わりが突然だったということでしょう。人生は、突然、中断させられることがあります。突然の死は悲しみであり、痛みにほかなりません。しかし、真実には、たとえ長く生かされたとしても、人生の終わりは誰にとっても突然です。その時がいつ来るのかを私たちは知らないからです。誰であれ人生の終わりは、突然、中断させられるようにして来ます。それゆえ、人生の幸いがどこにあるのかをわきまえておかなければなりません。「神と共に歩む」ことに人生の祝福があります。「神と共に歩む」ことによってこそ、自らの死に備える者とされるのです。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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