日曜朝の礼拝「平和を創り出す」

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平和を創り出す

日付
説教
望月信牧師
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。(9節)マタイによる福音書 5章3節~12節

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 「神の子」という主イエスの言葉を聞いて、当時の多くの人びとはただちにローマ皇帝アウグストゥスを思い浮かべたでしょう。ユリウス・カエサルが始めた戦いをアウグストゥスが終わらせて、ローマ帝国は落ち着いた発展と平和を楽しむことができるようになりました。「パクス・ロマーナ」と呼ばれる平和な時代をローマにもたらしたとして、皇帝アウグストゥスが「神の子」と呼ばれていたのです。

 「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。この主イエスの言葉は、それに対して疑問をぶつけていると言えるでしょう。本当にローマ帝国がもたらす平和が平和なのか。戦争そのものは終結して、治める側、支配する側は平和だと言えたかもしれません。けれども、主イエスが歩まれた地域はローマ帝国に支配される側でした。マタイ福音書4章の終わりに、病気や苦しみに悩む者たちが主イエスのもとに来たことが書き留められています。彼らは支配される側にあって、苦しみの中に置かれていたのではないでしょうか。福音書からは、ローマの役人に厳しく税金を取り立てられ、搾取されていたことがうかがえます。悪霊に取りつかれている人の中には、戦争という非人道的な行為によって引き起こされたものと推測されるケースがあります。たとえ戦争そのものは終わっていたとしても、人びとはなお戦争の陰のもとに置かれていました。戦争は終わっていません。争い、対立があり、憎しみや傷ついた心、痛み、苦しみ、悲しみが残り続けたからです。憎しみや痛み、苦しみのあるところに、本当の平和はありません。これは、日本に生きる私たちも、大切にわきまえておかなければならないでしょう。主イエスの問いは、今の時代にも聞かれるべきものなのです。

 「平和を実現する人々は、幸いである」。この幸いは八つの幸い全体と結びついています。この八つの幸いには大きな驚きがあります。通常、私たちにとって、心が豊かなことが幸いです。悲しむよりも喜んでいるほうが幸いです。柔和であるとは、しもべとして仕えることを意味します。一般的に言うならば、仕えるよりは仕えられるほうが幸いでしょう。そして、仕えるところでは搾取されることが起こり、正義を求めて飢え渇くことになりかねません。それは、普通ならば幸いではないでしょう。

 けれども、主イエスは「心の貧しいこと」「悲しむこと」「柔和であること」「義に飢え渇くこと」が幸いであるとおっしゃいます。それは、人の痛み、悲しみ、苦しみを知る者とされるからです。人生の悲しみ、痛み、嘆きを知る者とされるからです。そこに幸いがある。そして、そこからその悲しみ痛みを共に担うことが始まります。貧しさを知り、悲しみを知り、仕えることを知り、虐げられる苦しみを知る、そのところで人は憐れみ深くされ、心清くされて人生の真理を見つめるものとされます。そうして平和を創り出す。すなわち、その平和は、相手の悲しみや痛みを知って共感し、柔和に仕えて、真の正義の実現を祈り求める、そうして創り出される平和です。そこに、シャロームとしての平和があります。

 この平和、シャロームの平和は私たち自身の内にはありません。私たちには自分を第一にする罪の心があるからです。その罪の心を取り除くために、主イエスが来られ、十字架につけられて死んでくださいました。主イエスは私たちの罪を葬り去り、私たちの平和の土台、平和の礎となってくださいました。この主イエス・キリストを知ることから、真の平和シャロームが始まります。キリストの平和が与えられて、私たちにおいて実現します。私たちがキリストのゆえにへりくだり、隣人のために祈り、隣人に仕えることによって、キリストの平和が創り出されるのです。信仰者には、こうして真の平和シャロームを実現する幸いが与えられています。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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