日曜朝の礼拝「真の隣人イエス・キリスト」

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真の隣人イエス・キリスト

日付
説教
望月信牧師
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(30~37節)ルカによる福音書 10章25節~37節

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 ユダヤ人と推測される一人の人が追いはぎに襲われて倒れており、祭司とレビ人が通りかかりました。彼らは主なる神に仕える立場であり、「あなたの神である主を愛しなさい、また、自分を愛するように隣人を愛しなさい」という愛の教えに忠実であることを誰よりも求められる人びとです。しかし、彼らは道の向こう側を通って立ち去りました。それに対して、一人のサマリア人がそこを通りかかり、倒れていた人を見て駆け寄り、彼を助けました。傷の手当てをするだけでなく、宿屋に連れて行き、回復するまで滞在できるよう手配しました。そうして、主イエスは問いかけます。「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。

 まず一つとして、私たちの愛の範囲が突き崩され、打ち破られることが求められています。人を愛することの大切さを知っていても、その範囲を限ってしまうのが私たちの現実です。家族や友人、知人を隣人として大切にしますが、通りすがりの人までもが隣人であるとは考えません。祭司とレビ人は傍観者だったのであり、私たちもそのような傍観者になりがちです。助けたくないのではありません。ただ、自分には関わりのないことだと考えているのです。しかし、そこで主イエスは関わることをお求めになります。主イエスが求める隣人愛とは、傍観しない愛、身を乗り出していく愛です。とりわけ、このサマリア人において際だっているのは敵をも愛する愛だということです。当時、ユダヤ人とサマリア人は敵対する関係にありました。彼は、その敵対する関係、憎しみと対立を乗り越えるほどに身を乗り出して愛して、隣人となりました。

 もう一つ、自由ということを心に留めましょう。このサマリア人は敵意や対立を乗り越えて、自由でした。彼は敵意から自由であり、自分自身からも自由でした。彼は追いはぎが再び現れることを恐れず、自分の身を守ることも忘れて、このユダヤ人を助けました。彼は労力もお金も時間も惜しみません。これは自分に犠牲を強いる愛ですが、そこに自由があります。それが大切です。彼は自由に愛したのです。彼は憎しみからも敵意からも自由であり、自分自身からも自由であった。彼は縛られていない。主イエスは、このような自由な愛を求めておられます。

 愛することは強制されてするものではありません。このサマリア人のたとえも、隣人愛を強制するものとして読まれてはなりません。強いられて愛するのではなく、彼は「その人を見て憐れに思」った、その憐れみの心に素直に従ったまでです。主イエスは、そのような愛を求めておられます。隣人愛ですが、それは真実には自由に愛するということです。心痛めて同情し、その思いに突き動かされて愛する。だからこそ、どこまでも愛することができる。敵意や対立はもちろん、自分自身からも自由にされて、愛することができる。こうして、どれほど自由に憐れみの心に動かされることができるのか。そのことが問われています。

 私たちは、この隣人愛の尊さを知りながら、実行できません。罪のゆえに愛する心、憐れむ心が歪み、曇ってしまっているからです。主イエスは、その私たちを愛する者へと造り変えてくださいます。私たちに愛を回復して、自由に愛することができる者としてくださいます。そのために、主イエスご自身、自由に愛されました。たとえ安息日であっても、たとえユダヤ人から非難されても、手が麻痺している人の手を癒やして、憐れむ心、愛する心に素直に従われました。そうして主イエスは私たちを愛し抜いて、ついに御自身を惜しむことなく十字架につけられてくださいました。この意味で、このサマリア人は主イエス・キリスト御自身にほかなりません。主イエスが私たちの真の隣人となってくださり、私たちは、この自由に愛する愛に生きる者として新しくされるのです。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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