日曜朝の礼拝「平和の王」

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平和の王

日付
説教
望月信牧師
エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。(1~3節)
イザヤ書 11章1節~10節

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 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」。ここには絶望と希望が重なり合っています。大きな木が切り倒されることを思い浮かべていただくとよいでしょう。切り倒されて切り株となり、死んだと思われる。けれども、そこから芽が萌えいでるのであって、希望がある。しかし、イザヤがこの預言を語ったとき、まだその木は切り株になっていませんでした。その木とはユダ王国であり、ダビデ家です。イザヤが預言したとき、ユダ王国はなお存続していました。けれども、イザヤは語らなければなりませんでした。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」。その前提として、木は切り倒されなければなりません。それは主ご自身が切り倒されます。ですから、これは神の裁きを告げる御言葉でもあるのです。

 主なる神がアハズ王やヒゼキヤ王に求めておられたのは、主なる神から与えられる平和を待ち望むことでした(イザヤ30:15,16)。神に信頼せずに、ほかのところに助けを求めるならば、皮肉なことに陥るだろう。その通り、アッシリアに助けを求めてはアッシリアにつけ込まれ、エジプトを頼ってはエジプトに裏切られる。そうして、エルサレムは政治的に混乱し、また、社会的な不正義、不公正な状態が広がっていました。その中で預言者イザヤは主なる神に立ち帰ることを求めました。大切なことはまことの神に依り頼み、神から来る助けを待ち望むことであると、告げ知らせました。そして、ここでは、ただ切り倒されるだけでなく、ひとつの芽が萌え出でること、ひとつの若枝が育つことが約束されました。この若枝であるお方を待ち望みなさいと命じられたのです。

 「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊。思慮と勇気の霊。主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる」。救い主メシアは霊に満たされて御自身の御業を成し遂げられます。その霊の特徴は、神の御心にかなうことを見分けて、神の喜ばれないことをしりぞける、知恵と識別、思慮と勇気です。それらはすべて、主を知り、畏れ敬うことから始まります。そのお方は決して目に見えることによって右に左に揺れ動いてしまうお方ではありません。主を畏れ敬い、神の御心に聴き従うゆえに、目に見えるところ、耳に聞こえるところで判断するのではなく、弱い人のために正当に裁きを行い、貧しい人を公平に弁護してくださいます。そうして、神の正義と公正が実現するのです。

 ダビデ家が切り倒されることはたいへん痛ましいことであり、そこには人間の罪があります。けれども、そこからひとつの芽が萌えいで、若枝として成長させられます。その上には主の霊がとどまり、とりわけ主を知り、畏れ敬う霊に満たされます。そのようなお方として救い主が遣わされる。主イエス・キリストは、まさにその通り、弱い人を憐れみ、友なき者の友となり、私たちの罪を背負って十字架につけられることによって、正義と真実を地に打ち立ててくださいました。

 イザヤは、6節以下、獣たちの間の平和を幻として示しました。主を畏れ敬う時に実現する平和は、人間を越えてすべての被造物の平和の礎となります。主イエスの降誕と十字架において、このことが原理的にはすでに成就しました。そして、このお方はやがて再び来られます。再び来られる主キリストが、すでに成就したことを完成させられます。それゆえ、私たちは、ほかに助けを求めるのではない、ただ主イエスを畏れ敬い、神の御業を求めます。やがて来られる平和の王、主イエス・キリストを待ち望む姿勢を整えて、信仰の歩みをまっとうして参りましょう。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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