日曜朝の礼拝「ナザレの人イエス」

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ナザレの人イエス

日付
説教
望月信牧師
占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」21:そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。(13~15節、19~23節)
マタイによる福音書 2章13節~23節

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 ヘロデが幼い子どもを殺したという、たいへん痛ましい出来事が書き留められています。クリスマスが光の出来事であるならば、これは暗闇の出来事です。そして、福音書は、たとえ暗闇のように思えることにおいても神の御手は確かなのだと語っている、と言うことができます。

 クリスマスはへりくだりの出来事です。神の御子であるお方が低きにくだり、へりくだって人となられました。ヨセフとマリアも神の御言葉の御前にへりくだり、自らを神の器として謙そんに差し出しました。東方から来た占星術の学者たちも神の御前に謙そんでした。彼らは、光り輝く星に導かれ、ひれ伏して幼子主イエスを礼拝し、神の御言葉に聴き従う者とされて、別の道を通って自分たちの国へと帰って行きました。そこに彼らの低い姿があります。神の栄光の光は、神の御言葉に聞き従い、神の御前にへりくだる彼らの姿を明るく照らし出しています。

 ヘロデ王は人間的には絶頂を極めていました。学者たちが自分のところに立ち寄らずに帰ったことに気づいたヘロデは大いに怒り、男の子を一人残らず殺させます。これは、ヘロデの大きな権力を証ししているでしょう。彼はエルサレム神殿の再建に力を尽くして、ユダヤ人からもある一定の尊敬を勝ち得ており、人間的には名誉も権威もあったのです。そして、彼は、主なる神の御前においても傲慢であり、高ぶっていました。彼は、新しいユダヤの王のお生まれについての御言葉を教えられていながら、その幼子の前にひれ伏そうとはいたしません。その、神の御言葉の前に高ぶる傲慢な姿を、主なる神は決してよしとはされません。

 この出来事は、たいへん悲しく、痛みをおぼえる出来事です。けれども、そこに主なる神の御手がないのではありません。主なる神は、不思議な仕方でヨセフとマリアを導き、幼子主イエスを守り抜かれました。主なる神は夢でヨセフに現れ、彼らをエジプトに導き出されました。ヘロデの死後、主はヨセフに再び現れてイスラエルへと導き、また、彼らにガリラヤのナザレに帰るようにと命じられました。福音書は、こうして神の神の御計画と約束は確かであると言います。エジプトから救い主を呼び出すという約束も、救い主がナザレの人と呼ばれるという約束も、主なる神によって確かに成し遂げられました。ヘロデのたいへん残酷な、痛ましい出来事の中にも、主なる神は御自身の御手を伸ばして働いておられます。主は、私たちの苦しみの中で決して離れておられるのではありません。苦しみのときにこそ共にいて、働いてくださるお方です。

 「彼はナザレの人と呼ばれる」について、イザヤ書11章1節との結びつきが指摘されます。「その根からひとつの若枝が育ち」の「若枝」が「ネツェル」であり、「ナザレの町」ということに結びついていると言われるのです。若枝は、倒された木の切り株から出た芽が育った若枝であり、虐げられ低くされ小さくされたゆえの若枝です。そこに主の霊がとどまる、そこに神の力が働きます。それはまさに幼子主イエスのたどられた道そのものでした。エルサレムではなくベツレヘムに生まれ、エジプトに逃れ、イスラエルに戻ってナザレに向かった。こうして、切り株から萌え出た、低くされたものとしての若枝がナザレということと重なります。そして、そこに主の霊がとどまり、主の御手が働くのです。

 ヘロデの出来事には人間の罪とその悲惨が現れ出ています。しかし、そこにも主なる神は御自身の御腕を伸ばしておられます。神の御前にへりくだる者には主の霊が注がれて、神の御力によって捕らえられています。神共にいますインマヌエルが実現しており、神の御手によって守り導かれることは確かなのです。こうして、聖書は、神の御前にへりくだり謙そんであるところに私たちの歩むべき道があるのだと告げています。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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