日曜朝の礼拝「聖書に聞く、子育ての秘訣」

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聖書に聞く、子育ての秘訣

日付
説教
望月信牧師
主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。(7節)箴言 1章1節~7節

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 「主を畏れることは知恵の初め」とあります。この箴言全体の要とも言うべき御言葉です。ここに、聖書の語る教育の基本があります。「初め」とは物事の根本の意味での初めであり、土台とも言われます。主なる神を畏れることが教育の根本であり、土台です。

 「主を畏れる」。一つのヘブライ語を日本語で訳し分けていて、「恐れる」と「畏れる」は同じ言葉です。どちらにも「恐い」という気持ちがあるでしょう。自分を超えた大きな存在、未知なものを恐れる思いです。暗闇が恐い、火が恐い、それは未知な何かを恐れたり、制御できないものを恐れる気持ちです。この恐れがとても大切です。神を畏れるのも、神の御前で私たちが小さく無力な存在だからです。その意味で、神の大きさを知り、自らの小ささを知ることが大切です。恐れを知るときにこそ、人は謙そんであることができます。神を畏れ、人間関係においても他者に対して傲慢であることから解き放たれます。その意味で、恐れを知っているということは、人間にとって決定的に大切なことです。

 そして、主なる神は、決して未知なお方ではありません。御言葉によって私たちに語りかけくださるお方です。大いなるお方ですが、小さく無力な私たちをご自分の子どもとして愛してくださり、独り子イエス・キリストさえ与えて、愛と恵みの内に養い導いてくださるお方です。ですから、「主を畏れる」とはいたずらに恐がることではありません。むしろ、神の招きに応えて神の子どもとして生きることが大切です。箴言は、こうして、主なる神を第一として生きる人生へと私たちを招いています。

 さて、こうして主を畏れるところで、実のところ、親も子どももありません。親も子どもも真実には同じ地平に立っています。それが子育てを考えるときに大切です。子どもを育てるときに、私たちはいつの間にか自分が主語、また主体になっているのかもしれません。子どもも神の御前に一個の人格的で主体的な人間であることを忘れがちなのです。そのことをわきまえて、子どもを一人ひとり尊重することが大切でしょう。

 それでは、親の役割は何でしょうか。8節に、「わが子よ、父の諭しに聞き従え、母の教えをおろそかにするな」とあります。「諭す」とは何が正しいのか何が間違っているのかを教えること、「教え」とは人生の道しるべ、羅針盤を示すことです。聖書は、親の基本的な務めについて、何がよいことで何が間違っているのか、すなわち神の御心を教えることであり、また人生の歩むべき方向を指し示すことなのだ、と語ります。

 親になって思わされることは、赦されなければ親であることはできないということです。実にしばしば親は約束を取り消して、子どもを裏切ります。子どもにごめんと謝るたびに、子どもであるとは親を赦すことなのだと思わされます。その意味で、親は子どもと同じ地平に立ち、子どもに対して率直に謝る姿勢が大切です。実にそのことによって、親は子どもに神の御心を示し、羅針盤として歩むべき方向を指し示します。神の御前にへりくだり、失敗して右に左にそれることがあっても、悔い改めて神のもとに立ち帰る者として生きる。それをもっとも身近な信仰者の姿として子どもに見せるところに、親の務めがあります。その点で、大切なことは子どもと共に祈ることです。神の御前にひざまずき、真摯に祈る親の姿を見て、やがて子ども自ら神の御前に立つことを学び取る。それが労苦しながら子どもを育てる親に対する、主なる神の約束です。

 こうして親は案内役なのであり、その意味で、親が子育てのすべての責任を負うのではありません。聖書は、成長させてくださるのは神ご自身だと約束しています(コリント一3:7)。その主なる神に依り頼んで、子育てに取り組むことができるとは、何と幸いなことでしょうか。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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