日曜朝の礼拝「罪の奴隷となることなく」

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罪の奴隷となることなく

日付
説教
望月信牧師
さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、こう言った。
「カナンは呪われよ
奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」
また言った。
「セムの神、主をたたえよ。
カナンはセムの奴隷となれ。」(20~26節)
創世記 9章18節~29節

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 「セムの神、主をたたえよ」(26節)とあります。イスラエルの民はセムの子孫であり、この箇所の一方の当事者はイスラエル民族です。また、「ハムはカナンの父」(18節)などとあり、もう一方の当事者はカナンです。それも個人としてのカナンではなく、民族としてのカナン人です。この箇所は、ノアとその息子セム、ハム、ヤフェトの物語でありながら、同時にそれぞれを始まりとする民族のことを語っています。

 出エジプトを果たしたイスラエルの民がカナンに入るに際して、二つのことが大きな問題でした。カナンにはカナン人が住んでいて、一つにはカナン人は偽りの神々を拝んで礼拝していました。偶像礼拝です。もう一つは、カナンではソドムとゴモラという町の名前と合わせて知られる性的な不品行が盛んに行われていました。その性的な不品行、道徳的な腐敗です。10章に、ハムの子孫としてカナンの名前が登場します。そこでカナンの偶像礼拝と不品行は拒否されるべきであると教えて警告するために、この出来事がここに収められたのでしょう。「カナンはセムの奴隷となれ」(26節)という言葉も、奴隷を認めているのではありません。このような表現でカナンの神々をしりぞけて、セムの神、イスラエルの神こそが真実の神だと告げていると、申し上げることができます。

 さて、ノアはぶどうを栽培し、ぶどう酒を造って、親しんでいました。聖書は飲酒を否定しておらず、お酒を楽しむことは認められています。しかし、聖書は大酒を飲むこと、お酒によって我を忘れることについて、警告しています。度を越すことを禁止するのです。それはむさぼりであり、罪の誘惑にもなるからです。使徒パウロは言います。「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです」(エフェソ5:18)。

 しかし、ノアは酔いつぶれて裸になっていました。「カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた」と言われます。聖書は不品行について、直接的な表現をあまり用いません。たとえば、「知る」という言葉で性的な行為を言い表します(創世記4:1)。ここでは、そのような意味で「見る」という言葉が用いられています。すなわち、ハムは父であるノアに対して不品行に及びました。さらに「末の息子がしたことを知り」(24節)とありますが、ハムは末の息子ではありません。ノアがカナンを呪います(25節)が、カナンはハムの末の息子です(10:6)。そうすると、この末の息子とはカナンかもしれません。すなわちカナンまでも、あるいはカナンが率先して事に及んだゆえにカナンが呪われるのではないか。そのようにも推測することができます。

 ハムが父の裸を見て、「外にいた二人の兄弟に告げた」とは、おそらく彼らを誘惑したということです。それをセムとヤフェトは拒否しました。後ろ向きで歩いて行くまでして、文字通りの意味でその姿を見ることをも拒否しました。それは、彼ら二人は不品行を拒否するだけでなく、父ノアに対する敬意を最後まで失うことがなかったということでしょう。たとえ罪の悲惨にからめ取られていたとしても、父を父として尊んだのです。

 こうして、この御言葉は偽りの神々をしりぞけることを教え、不品行を戒めます。民族を機械的にセム、ハム、ヤフェトに区別することには、意味がありません。たとえ民族としてセムの子孫であっても、カナンの罪を犯すならば、それはカナンの子孫なのです。主なる神をほめたたえるところに神の祝福また信仰者の幸いがあります。ノアの言葉は、そのことを教える祈りの言葉なのだと言えるでしょう。今日、主イエス・キリストの父なる神を神としてほめたたえる信仰に生きる者が、本当の意味でセムの子孫であり、神の民です。主イエス・キリストに依り頼んで罪から離れ、誘惑を拒み、身を慎んで歩むことを祈り求めて参りましょう。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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