日曜朝の礼拝「苦しむことも恵みとして」

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苦しむことも恵みとして

日付
説教
望月信牧師
ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。
フィリピの信徒への手紙 1章27節~30節

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 使徒パウロは、「ひたすらキリストの福音にふさわしく生活を送りなさい」と言って、ただ一筋にキリストのしもべとして生きるよう勧めます。それは「共に戦う」と言われるように、労苦をともないます。ですから、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」と言います。信仰者とされて救われてよかったと思える、それはもちろんですが、苦しむこともある。その苦しむことも恵みとして与えられているのだと言います。ここに、キリスト者に与えられている二重の恵みが示されています。

 第一に、キリストを信じることが恵みとして与えられていて、すなわち信仰は神からの賜物です。私たちの救いはキリストの十字架によって成し遂げられた神の御業です。そして、神がわたしを捕らえてくださったと言うほかない、わたしの内に働く神の御業、聖霊の御業を認めます。

 第二に、苦しむことも恵みとして与えられていて、苦しむことも神からの賜物です。普通に考えるならば、これは理解しがたいことでしょう。通常、苦しみから逃れたいと願って宗教に頼ります。人間の抱える苦しみを解決することが宗教の役割ではないか。その通りです。キリスト教も苦しみからの解放を救いとして提供します。私たちは自分の欲望や憎しみ、ねたみといったことに苦しみます。自らの内に闇を抱えていることで苦しむのです。聖書は、それが罪の問題だと指摘して、私たちに神に立ち帰るよう教えます。そうして、私たちの抱える苦しみに対して、根本的な解決を提供します。それがキリストの十字架による救いです。

 ここで言われる苦しみは、そのような苦しみとは違います。「キリストのために苦しむ」とあり、キリスト者として生きるときに起こる苦しみです。一つには、キリスト者として生きるときに起こる周りとの摩擦やあつれきです。私たちキリスト者は、天に国籍を持つ神の国の民としてこの地上を生きるのです。価値観が違えば時間の用い方も違いますから、摩擦やあつれきが生じて、避けることができません。キリストを告げ知らせて受け入れられず、苦しむこともあるでしょう。私たちは、その苦しみを耐え忍んでなお、キリストのしもべとして生きることに立ち続けます。

 もう一つ、キリストが苦しまれたことを私たちも経験して苦しむ、キリストと共に苦しむことです。もちろん、キリストが十字架で私たちの罪の償いのために苦しんでくださった、その苦しみを経験することではありません。しかし、私たちが共に苦しむ苦しみがあります。自分のことで、自分のために苦しむのではありません。他者の苦しみを共にして苦しむのです。主イエス・キリストが苦しんでくださったのも、自分のこと、自分のためではありません。私たち罪人のために苦しんでくださいました。

 主イエスは、人間を捕らえて苦しめる罪と死の力に憤り(ヨハネ11:33)、それらを背負って苦しまれました。私たちも、罪ゆえのさまざまな悲惨に心を痛め、嘆いて、苦しみます。震災や戦争のような災害があり、病の苦しみ、人間関係の破れに苦しんでいる方もおられます。まっすぐに生きて苦しみを抱え込む。今のこの社会の構造的なひずみ、歪み、そういうものを抱えている方もおられます。それらに心を留めて、祈りにおぼえる。直接的に何かができるわけではありませんが、心に留めて、執り成して祈る。そうして、その方々の隣人となり、苦しみを共に苦しむ。

 キリストのために苦しむことは恵みにほかならない。それは、私たちの信仰がそのことを通して練り清められ、成長させられるからです。そしてまた、主イエスが、苦しみ、悲しみを耐え忍ぶ人の姿を取り上げて、約束しておられるからです。「悲しむ人びとは、幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5:4)。主よりの慰めが豊かでありますように。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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