日曜朝の礼拝「神なき世界の中で」

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神なき世界の中で

日付
説教
望月信牧師
 七日目のことである。ぶどう酒で上機嫌になったクセルクセス王は、そば近く仕える宦官メフマン、ビゼタ、ハルボナ、ビグタ、アバグタ、ゼタル、カルカスの七人に命じて、冠を着けた王妃ワシュティを召し出そうとした。その美しさを高官および列席する民に見せようというのである。王妃は美しい人であった。ところが、王妃ワシュティは宦官の伝えた王の命令を拒み、来ようとしなかった。王は大いに機嫌を損ね、怒りに燃え、経験を積んだ賢人たちに事を諮った。王の身辺の事柄はすべて、国の定めや裁きに通じている人々によって審議されることになっていた。(10~13節)
エステル記 1章1節~22節

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 エステル記の時代背景はペルシア帝国の時代です。ペルシアのキュロス王がイスラエルの民を捕囚から解き放ち、主の神殿を建てるためにエルサレムに上って行くがよいと言いました。エズラ記は、それを受けてエルサレムに帰り、主の神殿を建て直した人びとの姿を書き留めています。続くネヘミヤ記には、エルサレムの城壁が再建されたことが書き記されます。けれども、実際にエルサレムに帰ったのは一握りの人びとでした。捕囚の地とはいえ住み慣れた場所になっていて、そのまま住み続けることを選んだ人びとがあり、帰りたいと願いながらも断念せざるをえない人びとがありました。エステル記は、その、捕囚の地に留まり続けなければならなかったイスラエルの民の姿を私たちに伝えてくれています。そして、主なる神は、捕囚の地、異教の地でやむなく生活し続けるほかなかった者をも決してお忘れになっていないのです。エステル記は、捕囚の地に留まらなかった人びとにも神のまなざしが注がれていることを明らかにしてくれている、大切な書物にほかなりません。

 実は、エステル記は、教会においてしばしば遠ざけられてきた書物です。ひとつには、あまりにもユダヤ的だと言われます。ユダヤ民族主義的だということです。もうひとつには、異教的な色彩が強いと言われます。とりわけ1章に記される、豪華絢爛な有様、登場人物たちの横暴な振る舞い、王様はもちろん賢人と呼ばれる人びとの愚かな発言、女性たちが軽んじられ、差別されている様子、それらが読むに堪えないと言われます。何よりも「神」が登場しないと指摘されます。

 確かに、余りにも贅沢三昧、豪華絢爛、登場人物たちは愚かな発言に終始しています。しかし、これらは決して遠い国の出来事ではなく、今なお私たちの身近にある事柄ではないでしょうか。クセルクセス王が酒宴を催して、自分の富と栄光を見せびらしかます。王妃ワシュティの退位のきっかけは、王の呼び出しを拒んだことです。女性向けの宴会はワシュティが別に催していましたから、王の酒宴は男性たちだけです。酔っぱらった男性たちに囲まれて何が起こるか分かりませんから、王妃ワシュティが拒むのは当然とも思えます。酒宴の果ての事柄なのです。そして、王とその取り巻きの賢人たちの女性を軽んじる愚かな発言、女性を支配し、男性を主人とする振る舞い。これらはいずれも私たちの身の周りから決して遠いことではありません。ですから、自分自身の中にこのような愚かさを認めて、自らを省みることが大切でしょう。

 この愚かな、神なき世界と思われる中に、けれども、神は生きて働いておられる、そのことをしっかりと心に留めましょう。この愚かな有様を、主なる神は決してそのままにするのではありません。「神」という言葉はありません。けれども、神が生きて働いておられる、そのことを明らかにするのがエステル記です。人間的には偶然に過ぎません。けれども、その背後に神のご配慮があり、神の摂理の御業があります。歴史を支配しておられる神がおられることが指し示されているのです。

 私たちも、神などいないと思われるような世界の中に置かれています。災いや人間の愚かさに嘆かされ、それは決して人ごとではなく、自分自身も罪の悲惨の中に捕らえられていることを示されて、涙することも起こります。神はいったい何をしておられるのかと思われます。けれども、主なる神は生きて働いておられ、私たちを力強く支えておられます。今はまだ悟ることができないかもしれません。けれども、主なる神は私たちと共にいて、私たちを導いておられます。主なる神は、私たちのことを決して忘れてはおられません。主なる神の御手に信頼して、私たちも忍耐強く主なる神に依り頼んで、歩んで参りましょう。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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