日曜朝の礼拝「生きている者の神」

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生きている者の神

日付
説教
望月信牧師
 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。ルカによる福音書 20章27節~40節

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 「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」。申命記25章5~10節にある「レビラート婚」の規定です。古代社会では男性が命を失うことが多く、未亡人が増えてしまう、その未亡人に対する配慮を考えた掟です。これを取り上げて、サドカイ派の人びとは、「七人の兄弟がいて、その七人ともが順々に一人の女性を妻として、子どものいないまま死んでしまった。その場合、復活の時、その女性は誰の妻になるのか」と言います。サドカイ派の人びとは復活を信じておらず、「こんな問題があるならば、復活など本当にあるのだろうか」と言いたいのです。

 主イエスは、おそらく、彼らの問いを深く悲しまれたであろうと思います。主イエスは、悲しみをこらえて、しばらく静かに黙っておられたのではないでしょうか。子どもも与えられずに夫を失った悲しみと嘆きを思い巡らすことなく、復活信仰を否定するために、七人の兄弟などという、まったくの仮定の話を持ち出すのです。マタイ福音書によると、主イエスは、まずこうお答えになりました。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」。神を信じていると言いながら、実のところ神の力を信じようとせず、そのため、聖書を読み損なっていると、主イエスは、彼らのことをたいへん厳しく批判しておられます。

 そして、「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」とおっしゃって、真理がどこにあるのか、ていねいに教えてくださいました。めとること嫁ぐこと、これは地上の人生の中で与えられている制度です。夫や妻は、地上の人生を共に歩み共に戦う協力者、いわば戦友として神が与えてくださっている地上の関係です。その地上の関係が天上でも続くわけではありません。夫婦や親子、血縁の関係は、地上において神の恵みの泉となるように与えられている大切な制度です。けれども、罪の悲惨のゆえに労苦と重荷の源になることもあります。復活とは、その地上の労苦が天上に持ち込まれることではありません。「天使に等しい」「神の子」と言われます。復活のとき、私たちは一人一人が主イエス・キリストに結び合わせられ、神の御前に立たせられて、ただ「神の子」として生きることへと招き入れられるのです。

 その点では、地上において、人は独りでいるのは良くないのであり、互いに助け合う人間関係の中で、へりくだって仕えること、耐え忍ぶことを学び、練り清められていきます。そうして復活して天上に入れられ、一個の完全な人格として神の御前に立ち、みな等しく神の子として生きる。これは夫婦だけではありません、親子の関係においても、もはや親も子もなく、皆それぞれ一個の人格として神の御前に立ちます。

 こうして、生きるとは神の御前に生きることにほかなりません。そして、神の御前に生きるならば、それは死んでも生きるのである。神が生きて働いておられるのであり、たとえ私たちが肉において死んだとしても、しかし、神によって生きる、神に結ばれてとこしえに生きることが起こる。

 サドカイ派の人びとには、合理主義的に考えて復活を否定する思いがありました。しかし、神こそ人を生かすお方である、そのことを忘れてはりません。地上にせよ天上にせよ、生きて働いておられる神に支えられ、私たちは生かされて生きるばかりなのです。そして、ただそれゆえに、私たちは復活の命、天上の命を信じます。神を信じて、神の御力にゆだねるがゆえに、復活を信じることができるのです。その実現のために、主なる神はご自身の独り子の命さえ惜しまれませんでした。キリストにある復活の命を目指して、神の御前に忠実に歩んで参りましょう。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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