人間の権威によらず
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- 望月信牧師
ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」ルカによる福音書 20章1節~8節
説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。
鈴蘭台教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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祭司長や律法学者たちが長老たちと一緒に来て、ユダヤの国会であるサンヘドリン議会を代表して主イエスに問いかけます。「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」。「このようなこと」とは前日の宮清めを指しています(19:45,46)。商売をしていた人びとを追い出すことを誰が許可したのか。神殿で商売することは、サンヘドリン議会が許可していたのです。その商売を妨げることを、いったい誰の許しを得て行ったのか。神殿の境内で主イエスが教えることについても、誰が教えてよいと許可したのか、そういうこともあったでしょう。
主イエスは、逆に問いかけます。「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」。洗礼者ヨハネは人々に悔い改めの洗礼を授けましたが、ユダヤの権威から許可を得たものではありません。ユダヤの権威がヨハネに洗礼を止めさせようとしても、逆に洗礼を受けるために来ても、ヨハネはまったく動かされませんでした。ヨハネは、ただ神を信じる信仰に基づいて、自らの確信することを行いました。すなわち人間の権威によって裏付けることのできない権威があるということです。主イエスは、人間に依存せず、人間に左右されない権威があるとおっしゃいます。それこそまことの権威、神からの権威です。
ヨハネの洗礼が天からのものであると答えると、彼らは自分たちの権威を否定することになります。人からのものであると答えることも、群衆を恐れるゆえにできません。彼らは、人間的なメンツや利害のゆえに自分の心の思いを答えることができません。人間の権威に基づいて生きることはとても不自由です。それに対して、主イエスはたいへん自由です。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」。
さて、一つには、神の御業は時に私たちの思いを超えるものなのだと心に留めましょう。私たちにも、自分の庭、自分の領域に他者が入り込んで自由に振る舞われることをいやがる気持ちがあります。しかし、新しいものが入って来ることは、信仰にとって、本来、とても大切なことです。信仰とは、主なる神が私たちの主となることを求めて私たちの領域に入り込んでこられることだからです。そして、神の御業は私たちの思いを超えてはるかに大きく、はるかに豊かです。私たちが自分の手の内に納めてしまうことはできません。ですから、いかに自分をへりくだらせて、神の権威に従うことができるのか、そのことが問われます。
もう一つ、祭司長や律法学者、長老たちの権威も、本来、神からの権威です。彼らは神によって立てられた権威なのです。しかし、その権威を自分のものにして、委ねられたものであることを忘れていました。神の御前に謙そんであることが見失われていたのです。私たちは、権威が委ねられたものであることを自覚し、どなたが真実の権威者であるのか、どなたがまことの主であるのか、絶えずわきまえていなければなりません。そこでこそ、地上の権威がまことの神の権威として用いられることが実現します。たとえば教会も組織であり、ある種の権威を帯びるものです。牧師、長老、執事といった職務も同じです。そのときに、権威が自らのものではない、頭であるキリストの権威にほかならない、そのことをしっかり見つめて、わきまえていたいのです。教会は、人間的な支配や権威から自由なところとして整えられなければなりません。
人間的な権威から、人間的なメンツや利害から、私たちは自由です。主イエス・キリストによって自由であり続けます。主イエスは、ご自身の福音を自由な教会にこそお委ねくださいました。私たちはそれぞれ神の召しに応えて、信仰の自由に基づいてキリストの福音を宣べ伝えます。時が良くても悪くても、主イエスの召しに応えて、歩んで参りましょう。