日曜朝の礼拝「ありのままの姿でよい」

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ありのままの姿でよい

日付
説教
望月信牧師
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(9~14節)ルカによる福音書 18章9節~17節

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 「二人の人が祈るために神殿に上った」とあり、ファリサイ派の人と徴税人の祈りの姿と言葉が主イエスのたとえとして書き留められています。ファリサイ派の人は、神の御前に正しいものとして自他共に認める人物だったのでしょう。けれども、主イエスは、ファリサイ派の人が神によって義とされて帰ったのではない、とおっしゃいます。一つには、彼は自分と人を見比べて、自己満足に陥っていました。もう一つには、自分の生活を神の御前に誇っていました。主イエスは、ファリサイ派の人の心の内に潜む、うぬぼれと高ぶりを見つめておられます。

 人は、どれほど素晴らしい信仰生活をしていたとしても、人を見下したり、神の御前に自分を誇ることはできません。毎週の礼拝出席が許され、仕事が順調に守られている。それは、当たり前のようでいて、決して当たり前ではありません。そこには主なる神の憐れみと支えがあります。自分の健康やさまざまな能力も、決して自分のものではなく、神からの賜物、恵みにほかなりません。そのことを忘れてしまうと、私たちは、そのような思い違いをしてしまうことがあるのでしょう。主イエスは、信仰者のしばしば陥りやすい過ちを的確に指摘しておられます。

 徴税人は「遠くに立って」祈りました。彼はユダヤ人でしょうが、徴税人という職業を意識してでしょう、異邦人が立ち入りを許されるところまでで立ち止まります。そして、顔を上にあげることなく、胸を打ちながら祈ります。おそらく彼は自らの罪とけがれを告白しながら祈ったのです。ですから、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、ただ神の憐れみを求めて祈ります。ここには、自分の姿をさらけ出して神の御前に立つ姿があり、神の御前に悔いる心があると言えるでしょう。

 続いて、主イエスに祝福していただくために、人びとが小さな子どもたち、乳飲み子までも連れて来たという記事が書き留められています。子どもは自分のことを何も誇らず、ただまっすぐに親を信頼し、親を頼りとして生きています。子どもの手はからの手だと言われます。何も持たず、裸なのです。主なる神を信じて、神の国を受け入れるというのも、からの手で神の御前に立ち、神に依り頼めばよいのです。自分には何もない。それでよいのです。そうして、裸で神の御前に立つ。その姿を主なる神は喜ばれるということなのではないでしょうか。

 主イエスは徴税人の姿を示しておられます。この徴税人は、人に見せるような祈りの生活も献金もありません。あるのは罪人と言われて後ろ指を指される徴税人という職業だけです。プラスの材料は何もなく、あるのはマイナスだけである。けれども、この徴税人は、その自らの姿をありのままにさらけ出して、神の御前に立とうとしています。裸で、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と訴えて、神に依り頼んでいる。

 それでよい。それが主イエスが私たちに教えておられることです。ありのままで神の御前に立ち、神に依り頼む。それでよい。そのためにこそ、主イエス・キリストご自身が十字架につけられてくださったのです。私たちの罪の赦しも、私たちがささげるべき神の御前の善い行いも、それらはすべて主イエス・キリストが十字架において成し遂げてくださったのです。それで十分である。そして、私たちに求められることは、十字架と復活のキリストを見つめて、「罪人のわたしを憐れんでください」と祈り、キリストに依り頼んで、その御声に聞き従うことなのです。

 「主よ、憐れみたまえ(キリエ・エレイソン)」。これこそ、私たち信仰者、キリスト者に求められる祈りの心、祈りの精神です。祈りにおいて、まずこの「主よ、憐れみたまえ」という心が大切にされるときに、私たちのささげるすべての祈りが神の御前に真実の祈りとされます。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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