神の国に生きる
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- 望月信牧師
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」ルカによる福音書 17章20節~21節
説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。
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「神の国はいつ来るのか」。これは、「神がおられるなら、いったい何をしておられるのだろうか」という種類の問いです。ファリサイ派の人びとがそう問うたのは、彼らにとって神が生きて働いておられると思えない現実があったからでしょう。当時のユダヤはローマ帝国の支配下に置かれていて、それは異教徒による支配であり、ローマ風の文化が入り込み、多くの人びとはどんどん世俗化していました。その状況の中で、神は何をしておられるのかと思ったのでしょう。この種類の問いは、時代を越えていつでも私たちの心に浮かぶものなのだと思います。
まず、ファリサイ派の人びとが神の国を来るものと理解していて、主イエスがその理解をそのまま認めておられることを心に留めましょう。「神の国」を「天国」と言い換えると分かるでしょう。私たちはしばしば「死んだら天国に行く」ということを考えます。しかし、考えるべきは、天国に行くことではなく、来るということなのです。そして、ルカ福音書は、神のご支配を明確に言い表す「神の国」という表現を大切にしています。天の御国において神のご支配が実現しています。それに対して、地上においては、私たちの見るところ、神のご支配が実現しているようには思われません。けれども、天も地も等しく神が造られたところなのです。ですから、地においても神のご支配が実現することが大切です。地において神のご支配が実現する、それが神の国が来るということです。
そのところで、主イエスの言葉に耳を傾けなければなりません。「神の国は、見える形では来ない」。ファリサイ派に限らず、ユダヤの人びとはダビデ・ソロモン時代のようなイスラエル王国の再建を願っていました。一つには、神の国はそのような地上の一つの国家のような仕方で実現するものではありません。もう一つには、彼らがそう願い、考えていた、彼らの思いに沿う仕方ではないということでもあります。ユダヤ人にはユダヤ人の求める理想があり、今の私たちにも自分たちの理想を重ね合わせることがあるかもしれません。そのような私たちの願いをかなえる仕方で来るのではないということです。主イエスは、私たちの願望を映し出す仕方で神の国を考えることをしりぞけておられます。
主イエスはおっしゃいました。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。一つには、神の国は私たち一人ひとりの心の中に宿るものだということです。神を信じて主と仰ぎ、神の御言葉に従って生きる人の心に神の支配があるのであり、神の国が実現するのだということです。神の御言葉が私たちの心を捕らえて、私たちを造り替え、悔い改めて神に感謝し、神をほめたたえて生きる者とされます。こうして真実には私たちの内側に神の国は実現している。もう一つ、新共同訳が「あなたがたの間に」と翻訳している通り、神の御言葉を聞いている私たちの人間関係においてということです。御言葉が私たちを捕らえて、私たちを造り替えて、それは神を愛することと人を愛することへと私たちを導きます。神の愛を知り、神と人を愛する愛に生きる者とされて、私たちは互いに罪を赦し、互いに仕えて生きる。そこに神の国が来る、すでに来ている。
そのためにこそ、主イエスは神でありながら人となられ、十字架につけられるまでへりくだられました。ご自身の命を捨てて、私たちの罪ととがの贖いをすべて成し遂げてくださいました。聖霊も与えられました。ですから、神の国は、どこか外に探し求めるようなものではなく、私たち自身が御言葉によって悔い改めるところに実現していきます。そうして、私たちの理想ではなく、神の御心が成し遂げられる、そこに神の国が現れます。私たちは今や、主イエスと共に祈る者とされているのです。「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」。