日曜朝の礼拝「わたしが命のパンである」

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わたしが命のパンである

日付
説教
望月信牧師
イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(35~37節)

イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」(53~58節)ヨハネによる福音書 6章34節~59節

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 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。これは、ひっくり返して言うと、いくら食べても飢えることになるパン、いくら飲んでも渇いてしまう水があるということです。一つには、肉の糧としてのパンや水は食べてもまた飢えるパン、飲んでもまた渇く水にほかなりません。食べ物、飲物は、私たちの命のために大切な、欠くことのできないものですが、一時的なものにほかなりません。もう一つとして、私たちには心の糧が必要だということを考えることができます。たとえば音楽や文学によって心を励まされ、力づけられるのであり、それらはとても尊いものです。しかし、それらもやはり一時的なものだと言えるでしょう。

 「わたしが命のパンである」とおっしゃった主イエスは、「天から降ってきた」とおっしゃいました。「わたしは、天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」。主イエスは、死を越えて永遠に生きる、永遠の命ということを考えておられます。死を前にして、なお希望をもって生きることができる、死の力を打ち破って人を生かす糧が必要である。それこそ、私たちが求めるべき、命のパンである。それは、「天から降ってきたパン」こそ、決して飢えることがなく、決して渇くことのない、「命のパン」にほかならない。天から降ってきた生きたパンをこそ、命のパンとして求めよ、とおっしゃいます。

 自分の歩みを振り返り、あのとき失敗した、とても失礼な発言をしてしまった、けれども今さら取り返せないと、心を痛めながら思い起こすことがあります。あるご高齢の信仰者の方から、楽しかったこと、喜んだことよりも、失敗したこと、悔いることばかり思い出されるとおうかがいしました。後悔というか罪責感というか、そういう思いにさいなまれるのだとおっしゃるのです。人間とはそういうものなのかと考えさせられ、そのところで信仰者は幸いであると思わされます。まさに、悔いる私たちのために、神の独り子が天から降って来られました。天から降り、私たちと同じ人となられ、私たちの重荷を背負い、十字架につけられてくださった。私たちの負い目をすべて背負い、十字架につけられて、神の御前にすべての償いを成し遂げてくださいました。私たち自身ではとうてい償うことができない負債をすべて支払ってくださったのです。

 この十字架の主イエス・キリストのゆえに、私たちは、罪赦された者として、新しい命、復活の命を生きることができます。復活の命、永遠の命とは、もちろん天上の命ですが、ただそれだけではありません。今、神の御前に罪赦された者として生きる、そこに、主イエス・キリストが与えてくださる復活の命、死んでも生きる、永遠の命があります。

 主イエスは約束されました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。……わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。私たちは、主の晩餐の礼典を通して、主イエスの肉を食べ、血を飲む者とされて、この地上にあってすでに永遠の命を生きるものとされます。私たちには、いろいろな悔いがあり、罪意識があり、なお心に痛みを負い、苦しむのかもしれません。けれども、主なる神の赦しは確かです。その神の赦しに支えられて、前を向いて歩むことができる、希望をもって生きることができます。

 自らの罪を悔い、罪を赦してくださる神の恵みに支えられて、罪に死に、新しい命に生きる幸いが私たちに与えられています。礼拝と聖餐式を通して、また、日毎の肉の糧を通しても、十字架の主イエス・キリストの恵みを思い起こして、主の再臨を待ち望んで歩んで参りましょう。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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