聖書に聞く
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- 望月信牧師
金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」ルカによる福音書 16章27節~31節
説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。
鈴蘭台教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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金持ちと貧しい人ラザロのたとえの後半です。26節に「そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって……」とあります。これは、ただ一方と他方とを行き来することができないということではありません。私たちの死は、地上の人生の終わりであるだけでなく、私たち一人ひとりが神の御前に立たせられる時です。そこで神が裁きを下されるなら、誰もそれを覆すことはできないということです。死んでからではどうにもならないのであり、憐れみを求めるならば、生きている間なのです。生きている間に神の憐れみを求めよ、ということです。
この金持ちには兄弟が五人います。ラザロには何の憐れみも示さなかった金持ちですが、地上に残された兄弟たちのことを心配いたします。残された五人の兄弟が自分と同じように苦しむのは気の毒だと思い、兄弟のところにラザロを遣わして、警告してやってくださいと願い求めます。こうして、このたとえのもう一つの主題は、生きている五人の兄弟がいかにして悔い改めることができるのか、ということです。それに対してアブラハムは、「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と答えます。「モーセと預言者」とは旧約聖書のことです。今の私たちにとっては、もちろん新約を含めた聖書、聖書全体です。聖書に耳を傾けるがよい。主イエスはそうおっしゃいます。
金持ちは食い下がります。「死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば」と願い求めます。ラザロのように、死者の世界を知って、死者の世界を体験してきた人がひと言警告してくれるなら、きっと悔い改めるだろう、と言います。これは、私たちも思い浮かべること、私たちにも起こる誘惑です。不思議ないやしであったり、特別な奇跡を起こすことであったり、そのような驚くべき出来事があったら、もっとたくさんの人が信じてくれるかもしれないと思う。しかし、これはたいへん大きな誘惑であり、過ちに陥る道にほかなりません。人を驚かせて、いわば「目にもの見せてやる」というようなやり方は、真実に人を悔い改めに導く道ではありません。主イエスは、かつて荒れ野においてサタンの誘惑をしりぞけられました。「神の子なら」「石ころをパンに変えたらどうだ」、エルサレム神殿の上に立たせて「ここから飛び降りたらどうだ」。そのようサタンの誘惑を、主イエスはしりぞけられたのです。
主イエス・キリストがなさったことは、決して華々しいことではありません。けれども、そこに神の力があります。主イエスは、しもべとなって人びとの苦しみ、痛みを背負い、罪と弱さを担うことによって、罪からの救い主となってくださいました。その極みとして、十字架にかけられました。十字架のへりくだりによってこそ主イエスは救い主キリストであられます。その主イエス・キリストの愛と慈しみが、今や神の御言葉、聖書において私たちに差し出されています。私たちは、聖書を通して神の愛を知り、真実に悔い改めて、神の御前に立ち帰る者とされるのです。
ですから、アブラハムは答えます。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」。私たちはただ聖書の御言葉、神の御言葉に耳を傾けます。主なる神は、ご自身の御言葉をもって、私たちを確かな悔い改めに導き、新しい命を与えてくださいます。そして、御言葉によって差し出されているのは、私たちのために死に、復活された主イエス・キリストにほかなりません。私たちは、御言葉を通して、ただこの主イエス・キリストを見つめ、キリストの御声に耳を傾ければよい。そうして、私たちは自らの罪を悟り、真実の悔い改めへと導かれます。私たちは、主イエスに結ばれて神の子として歩む幸いな者とされるのです。