日曜朝の礼拝「イサクの奉献」

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イサクの奉献

日付
説教
望月信牧師
アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。(6~14節)創世記 22章1節~19節

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 アブラハム物語のクライマックスです。「これらのことの後で」とは、約束の子イサクが誕生し、もう一人の息子イシュマエルがアブラハムから遠ざけられた、それらの後で、です。イサクは長く待ち望んでようやく生まれた神の約束の独り子にほかなりません。そのイサクをささげよとは、いったい何ということでしょう。しかし、アブラハムは神に抗議せず、憐れみを願い求めもいたしません。それどころか創世記はアブラハムとイサクの心の内を何も明らかにしていません。嵐のように荒れ狂っているはずの二人の心の内について、聖書は完全に沈黙しています。

 それは、まさにここに信仰の奇跡があるからです。神が語りかけ、導かれるならば、たとえ不思議に思い、理解できなくても、神に従う。そういうことが起こるのです。もちろん盲信、狂信はしりぞけられるべきです。しかし、信仰という事柄において、いったいなぜなのですかと祈り、神に問いかけ、荒れ狂う嵐のように心が乱れながらも、しかし、主なる神を信頼して、ただ沈黙の内に従うということがありえるのです。信仰とは、私たち人間の思いを超えた神の御業にほかなりません。

 アブラハムとイサクは沈黙して神に従い、モリヤの地を目指します。しかし、二人は沈黙の内に雄弁に語っています。自分には理解できないことですが、神には御計画があり、備えがある。そのことを信じて、沈黙して従う姿勢を通して主なる神をほめたたえています。それが言葉としてあふれ出たのが、イサクに答えたアブラハムの言葉、「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」です。絞り出すようにして答えた言葉は、確かに主なる神を信頼する信仰の言葉でした。そうしてイサクも同じ信仰に立って「二人は一緒に歩いて行った」のです。

 もとより、自分の子どもをささげることは、聖書において固く禁じられています。当時、自分の息子や娘を神々にささげる、人身御供ということが広く行われていました。それは神がお嫌いになることで、決してしてはならないと、レビ記や申命記で繰り返し命じられています。それならば、いったいなぜ神はアブラハムにイサクをささげよとお命じになったのか。独り子がささげられると言ってただちに思い起こされるのは、神ご自身の独り子イエス・キリストの十字架にほかなりません。イサクの代わりに羊が与えられたように、御父が私たちの罪の償いのために用意してくださった、身代わりの犠牲の小羊が主イエス・キリストです。イサクが沈黙の内に自らをささげようとしたように、主イエス・キリストは沈黙の内に十字架にかけられることを自ら引き受けてくださいました。アブラハムとイサクの出来事は、独り子イエス・キリストの十字架に示される神の愛、三位一体の神の愛を指し示していると言うことができます。

 その神の愛への感謝として、自分自身をささげること、自分のすべてをささげることが私たちに求められています。イサクをささげよと命じられて、アブラハムの心は騒いだでしょう。けれども、心の内に神に祈り、アブラハムは神の御前にへりくだることを選び取りました。神の愛と知恵を信じて沈黙の内に従いました。そうして、イサクをささげるとは、アブラハムにとって自分のすべてをささげ尽くすことにほかなりませんでした。だからこそ、息子イサクもアブラハムと一緒に歩むことができました。

 私たちの信仰は、盲信や狂信ではありませんが、人間の常識的な判断を越えた神の御計画、神の知恵、神の備えがあることを認める信仰です。「主の山に備えあり」。ご自身の独り子を身代わりとして与えてくださるほどに私たちを愛してくださる神の愛のゆえに、私たちは神の知恵、神の御計画の前にへりくだり、神に従う生涯を歩みます。そうして、私たちの信仰の生涯のすべてが神への生ける献げ物とされるのです。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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