日曜朝の礼拝「サラの信仰」

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サラの信仰

日付
説教
望月信牧師
主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。(1,2節)
彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」
サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。
主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」
サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」
主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」(9~15節)創世記 18章1節~15節

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 主なる神は、アブラハムの神であるだけでなく、アブラハムの妻サラの神でもあられます。人は誰もが神の御前に立ち、神の御声を聞き、神に応えて生きる存在です。アブラハムに神の約束を信じる信仰が求められるように、サラにも神の約束を信じる信仰が求められるのです。

 三人の人が現れました。彼らは神の御使いでしょう。主なる神が人の姿を取って現れてくださったのです。彼らがアブラハムに尋ねます。「あなたの妻のサラはどこにいますか」。彼らにサラの居場所が分からなかったのではありません。かつて主なる神がエデンの園でアダムに対して呼びかけられた、「どこにいるのか」という言葉と同じです。園の中央に生えている木から取って食べた二人が神の御顔を避けて隠れた。その二人に主なる神が「どこにいるのか」とおっしゃった。主なる神は「どこにいるのか」と呼びかけて、私たちをご自分の御前に呼び出されるお方です。主なる神は、サラを御自身の前に立たせようとしています。

 「わたしは来年の今頃、必ずここにまた来ますが、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」。これもサラに向けて語られた言葉です。神の約束に信頼する信仰をお求めなのです。しかし、何と困難なことでしょう。二人とも年老いており、夫であるアブラハムにとっても信じがたいことでした。ましてサラにとってはどうだったのか。自分の体のことについては誰よりも自分がよく知っている。そう思ったでしょう。こうして、サラはひそかに笑います。心の内に笑うほかありません。

 彼らは言いました。そう、彼らが言ったのです。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子どもが生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。その頃、サラには必ず男の子が生まれている」。しかし、13節には「主はアブラハムに言われた」とあります。「主は」です。ここに至ってアブラハムとサラが気づいたからです。この三人はただの旅人ではない、主の御使い、いや主なる神御自身にほかならない。こうして、天幕の入口で聞いていたサラは、今や神の御前に引き出されます。

 しかし、神の御前に立たせられるとは、何と恐ろしいことでしょう。「なぜサラは笑ったのか」。神の約束に信頼する信仰に立つことができていない、信仰のない有様を指摘されるのです。サラは恐ろしくなり、打ち消します。しかし、主なる神を偽ることはできません。主はおっしゃいます。「いや、あなたは確かに笑った」。恐るべきことです。神の御前に立つとは、こうして私たちの真の姿が明らかになる事態にほかなりません。不信仰を指摘され、わたしは信じていないと明らかにされてしまう。

 けれども、主なる神の御前に立たせられることは幸いなことにほかなりません。神に従い得ない私たちの罪とけがれがあらわにされて、私たちは自分の愚かさに恥じ入るばかりです。けれども、それは幸いなことである。主なる神は、その私たちを憐れみ、助けてくださるお方だからです。21章にある通り、主なる神はサラを顧みてくださいました。彼女は身ごもり、アブラハムとの間に男の子が生まれ、イサク(笑い)と名付けられました。神を信じて依り頼み、心から喜んで笑う笑いを与えてくださった。不信仰を指摘されたサラは、主なる神を恐れることを通して神の御前に立つ者とされ、心から喜ぶ幸いを与えられたのです。

 主なる神は、今、私たちにも「あなたはどこにいますか」と問いかけて、ご自身の御前に立ち帰らせてくださいます。主なる神がサラを慈しみ、顧みてくださったように、今、主イエス・キリストのゆえに、私たちも憐れまれ、顧みられます。主に不可能なことは何もないと信じて、神の御言葉に信頼して、ただ主に依り頼んで歩んで参りましょう。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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