日曜朝の礼拝「たといそうでなくても」

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たといそうでなくても

日付
説教
望月信
ネブカドネツァル王は一つの金の像を造った。高さは六十アンマ、幅は六アンマで、これをバビロン州のドラという平野に建てた。ネブカドネツァル王は人を遣わして、総督、執政官、地方長官、参議官、財務官、司法官、保安官、その他諸州の高官たちを集め、自分の建てた像の除幕式に参列させることにした。総督、執政官、地方長官、参議官、財務官、司法官、保安官、その他諸州の高官たちはその王の建てた像の除幕式に集まり、像の前に立ち並んだ。伝令は力を込めて叫んだ。
「諸国、諸族、諸言語の人々よ、あなたたちに告げる。角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器による音楽が聞こえたなら、ネブカドネツァル王の建てられた金の像の前にひれ伏して拝め。ひれ伏して拝まない者は、直ちに燃え盛る炉に投げ込まれる。」(1~6節)ダニエル書 3章1節~30節

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 ネブカドネツァル王が、自分の権威と力を誇って、当時のいかなる像よりも巨大な金の像を建てました。その像の除幕式に際して、高官たちが集められ、金の像の前にひれ伏して拝むことが命じられました。これは、ネブカドネツァル王を拝み、彼を偶像とする行為にほかなりません。そのため、ユダヤから来た三人はひれ伏して拝みませんでした。彼らは、主なる神を神とする名前を奪い取られていましたが、まことの神を神とする心を失っておらず、王の建てた金の像を拝むことをしませんでした。

 彼ら三人がすぐれた人物であることを知っていた王は、「わたしの建てた金の像を拝まないというのは本当か」と言って、最後のチャンスを三人に与えます。けれども、三人の心は決まっていました。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません」(16節)。すでに自分たちの心は定まっている、たとえ王が何と言おうとも変わることはない、と答えます。彼ら三人が恐れていたのは、ネブカドネツァル王ではなく、天地を支配しておられる唯一の生けるまことの神お一人でした。

 炉は通常よりも七倍も熱く燃やされました。七とは満ち満ちる状態を意味しますから、できる限り激しく燃やされたのです。けれども、炉に投げ込まれた三人は、火の中を自由に歩き、何の害も受けません。彼らは主なる神によって守られて、燃え盛る炉から助け出されました。それは、バビロンの偶像礼拝からも助け出されるということでした。ネブカドネツァル王は彼らの神こそ生きて働く神であると知ったのであり、彼が王位に就いている間、ユダヤ人は、バビロンの神々を拝まないという理由で迫害されることを免れたものと推測されます。主はほむべきかな。彼ら三人が信じる神こそ生きて働かれるまことの神であられます。

 二つのことに目を留めましょう。一つは、燃えさかる火の中、四人の者が自由に歩いているのが見えたのであり、すなわち、主なる神ご自身が四人目として彼らと共におられた、ということです。詩編23編に、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。……死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」とあるように、燃えさかる炉の中においても羊飼いであるお方が私たちと共にいてくださって、私たちは恐れる必要がありません。主が羊飼いであることが、私たちから恐れを取り除き、平安へと導きます。

 もう一つは、18節の「そうでなくとも」です。もちろん、彼らは主なる神が共にいてくださり、彼らを守り抜いてくださると信じていました。けれども、彼らが神を神として信じたのは、神が彼らをお守りくださるからではありません。ただ神が神であられるからです。「そうでなくとも」神を神とするところに信仰があります。「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません」。ここに、主なる神を信じる信仰の神髄があります。

 この出来事において、「そうでなくとも」と言って神を信頼した、彼らの信仰にこそ奇跡があります。主なる神は、そのような奇跡と言うべき信仰を私たちにお与えくださいます。誰にとっても信仰は自分のものではありません。たとえ小さくても信じることが与えられている、そこに奇跡があります。そして、主なる神は、「そうでなくとも」と言って、自らの命さえ神にゆだねて信頼する信仰へと導いてくださるお方です。そのために、神は尊い独り子さえ惜しむことなく、十字架の死に引き渡してくださいました。その神の愛に捕らえられて信仰者とされた私たちです。神の愛に応えて、奇跡と言うべき信仰を祈り求めて歩んで参りましょう。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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