日曜朝の礼拝「全能の父なる神~使徒信条5~」

日本キリスト改革派 鈴蘭台教会のホームページへ戻る

全能の父なる神~使徒信条5~

日付
説教
望月信牧師
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。(17~19節)エフェソの信徒への手紙 1章15節~23節

この説教要約には音声ファイルはありません

 キリスト者は、ただ超越的で絶対的なお方としての神ではなく、「全能の父なる神」を信じています。超越的で絶対的な神を無色透明なイメージで思い浮かべるとすると、それに加えて「全能の父なる」という色が付いているのだと言えるでしょう。「全能の父なる」ということで、神を「人格的なお方」としてイメージすることができるのです。もちろん、「父なる神」とは神に性別があるということではありません。神は霊であり、身体をお持ちではありませんから、男性神であるのかとか、母なる神はないのか、ということが問題になるのではありません。

 しかし、「父」と言って第一に思い浮かべるのは、私たちそれぞれの父親でしょう。自分の父親が家父長的な権威のある父なのか、あるいは育児に励むイクメンなのか、それぞれの事情に応じて「父」のイメージは千差万別です。そして、自分の父のイメージを「父なる神」に重ねてしまうかもしれません。その点で、無限の存在である神を人間の言葉で言い表すことの限界をわきまえておくことが必要でしょう。

 聖書は、「栄光の源である御父」(エフェソ1:17)と言っています。「源」、これが何よりも父なる神ということです。御父は、天と地と海とそこに生きるすべての生き物を造られました。すべての被造物の源です。被造物はすべて神の栄光をあらわしていて、それゆえ御父はすべての栄光の源です。また、御父はすべての秩序を定めたお方であり、秩序と権威の源でもあられます。すなわち、言い換えると、御父こそがすべての存在と秩序の根拠であられます。御父に依らないものは何一つないのです。

 「全能」という言葉も、人間的なイメージの強い言葉かもしれません。「何でもできる」と考えて、自分の我がまま放題にできることが全能だと考えられがちです。しかし、私たちが「何でもできる」と考えるときに、自分の欲望のままにあれやこれをしたいと思うのは、私たちに罪があり、私たちの愛が不完全だからです。父なる神は、もちろん全能であり、何でもできるお方ですが、その「絶大な働きをなさる神の力」(エフェソ1:19)を、善いことのために、愛と憐れみをもって用いられます。

 「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ……」(エフェソ1:20-22)とあるように、御父は御自分の力をキリストに働かせて、私たち罪人のための救いの御業を成し遂げてくださいました。神の絶大な御力がどのように用いられたのか。それは、私たちを愛して、私たちを救い出すために、ご自身の御子を十字架の死に引き渡すことに用いられたのです。「全能」とは、実のところ、自分のために力を用いることではなく、他者のために力を用いるところにあらわされます。自分の力を自分のために用いる、それは力さえあれば誰にでもできることでしょう。自分の力を自分のために用いず、他者のために用いる、それが神の「全能」です。御子イエス・キリストは自らの命さえ差し出して、十字架につけられました。そこにも神の全能があります。

 こうして、「全能の父なる神」とは、慈しみと憐れみに富む神を指し示す言葉です。申命記は、子を背負う父の姿を御父に重ねています(申命記1:31)。御父は畏れ敬うべきお方ですが、慈しみと憐れみに富む父にほかなりません。それゆえ、主イエスが御父を「アッバ父よ」と呼ばれたように、私たちも親しみを込めて「アッバ父よ」とお呼びします。

 この御父の姿を通して、私たちは自らの姿を省みさせられます。慈しみと憐れみが自分にあるのか、与えられている力や賜物を自分のためではなく他者のために用いているのか。愛も慈しみもない自分であると告白せざるを得ません。全能の父なる神は、そのような私たちをご自身の喜びとして受け入れ、どこまでも背負ってくださるお方なのです。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

礼拝に来てみませんか?

鈴蘭台教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。

ホームページからでしたらお問い合わせフォームを。お電話なら078-592-6875まで。お電話の場合、一言「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると、話が伝わりやすくなります。