日曜朝の礼拝「生けるまことの神~使徒信条3~」

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生けるまことの神~使徒信条3~

日付
説教
望月信牧師
神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」(6~10節)出エジプト記 3章1節~15節

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 日本では、「鰯の頭も信心から」と言われるように、信じる対象がどなたであるのかよりも、信仰する人自身の心のありようが大切にされ、信仰する心、信心が尊ばれるように思います。人は、信じ、信じられて、生きる力を獲得します。信じることを知っている者は、信じてもらうことの大切さも知っています。ですから、信じる心は確かに尊いでしょう。けれども、本当に「鰯の頭」を信じることでよいのでしょうか。「信じる」という言葉は、日本語では「何々を信じる」と、「を」という助詞を用います。けれども、たとえば英語では"Believe in God"と言われ、"in"という前置詞が用いられるように、内容的には「に」という助詞が適切です。神を信じるとは、信じて神「に」依り頼むことです。神を人生と生活の土台として生きるということです。そうであるならば、「信じる」ことにおいて、真実には、どなたを信じるのかが決定的でしょう。

 使徒信条は、私たちの信仰の対象、依り頼むべきお方は「神」であると明確に言い表しています。いったいどなたを信じるのか、どなたに依り頼むべきなのか、それは生けるまことの神お一人です。「生けるまことの」という表現は、直接、使徒信条の文言には出てきません。けれども、これは「聖書の神」の大切なご性質です。

 主なる神は、エジプトにいるイスラエルの民の苦しみをつぶさに見、その叫び声を聞いて、イスラエルの民をエジプト人の手から救い出すと約束されました。その通り、主なる神は、モーセを遣わしてイスラエルの民をエジプトから導き出し、乳と蜜の流れる土地カナンに導き上ってくださいました。そのように、主なる神は生きて働かれるお方、救いの神にほかなりません。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。この言葉も、主なる神がアブラハム、イサク、ヤコブに対して働きかけた救いの神であることを意味しています。

 聖書の神は生きて働く神、私たちを力強く救い出してくださる神です。それゆえ、御父は御自身の御子を遣わして、罪と堕落の悲惨の中にある私たちを救い出してくださいました。御子によって私たちへの愛を現してくださいました。御子イエス・キリストは、神の刑罰である十字架を引き受けて死んでくださいました。自らの命さえ惜しむことなく、私たち罪人への愛を明らかにしてくださいました。そして、今や聖霊が私たちの内に住み、私たちの心を造り替えてくださいます。聖霊の御業によって私たちは神に自らをゆだねる者とされます。こうして、生けるまことの神は、父、御子、聖霊、そのすべてが一つとなり、私たちを罪と死の力から救い出すために生きて働いておられるお方です。そして、この生きて働かれる神は、裏表がなく、とこしえに変わることがない、「まことの神」であられます。それゆえ、この生けるまことの神に人生の土台を見いだして、このお方に依り頼んで生きることでよいのです。

 私たち自身の信仰心など、何の頼りになるでしょう。私たちは道をそれて迷い出し、神を見失うことがあるのです。神が私たちを捕らえていてくださるから、道をそれることのある私たちが信仰者として歩むことができます。手を握って道路を歩いている親と子のようなものです。子どもは何か目を奪われるものがあると、パッと手を離して飛び出そうとしてしまうでしょう。けれども、親は手を離さない。親がしっかりと子どもの手を握っているから、子どもは守られます。そのように、神御自身が私たちに働いて、捕らえてくださっている。それゆえ、私たちの信仰の歩みが生涯を通して守られると信じることができます。この生きて働く神、生けるまことの神こそ、ほめたたえられるべきお方です。この神に召されて、私たちもいきいきと生きて働く人生を歩んで参りましょう。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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