日曜朝の礼拝「キリストを知る素晴らしさ」

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キリストを知る素晴らしさ

日付
説教
望月信牧師
しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。(7~9節)フィリピの信徒への手紙 3章7節~11節

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 肉に頼ることもできた使徒パウロは、しかし、「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失とみなすようになった」と言います。「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」。損失とは借金や負債、マイナスを意味します。プラスであったものがゼロになったどころではない、マイナスにほかならないと言います。

 宗教改革者のカルヴァンが難破しそうな船にたとえて説明しています。船が嵐にあうなどして沈没しそうな危険にさらされたとき、船やそこにいる人びとを助けるためには積んでいる荷物を海に捨てることが必要である。荷物そのものは悪いものではない。むしろ、大切なもの、役に立つもの、貴重なものだろう。しかし、船が沈没の危険にさらされているとき、それらの荷物は役に立たないどころか、かえって重荷であり、マイナスにほかならない。カルヴァンは、「富と共におぼれるよりは、むしろ生きるために、これらを捨てるのである」と語っています。

 パウロの場合も、彼の生まれ育ちや宗教的立場それ自体が悪いわけではありません。しかし、それらを頼みとすることによって失ってしまうものがある。そうであるならば、捨て去るほかない。そう言って、パウロは、主キリスト・イエスを知ること、また、キリストを得、キリストの内にいる者と認められることを求めます。

 「キリストを得、キリストの内にいる者と認められる」と言っても、自分の力でキリストを得ようとするのではありません。キリストを知ることが素晴らしいのは、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があるからです。主イエス・キリストが十字架につけられて、十字架において私たちのすべての罪を背負ってくださいました。ですから、キリストにおいて私たちの罪がすべて処断されたのであって、それゆえ、今やキリスト・イエスに結ばれている者は罪に定められることがない。主なる神が、この十字架のキリストを私たちに差し出してくださっています。私たちは、そのキリストを信じて、差し出されるキリストの義を受け取ればよい。子どもが親を信頼してからの手を差し出すように、私たちも、主なる神を信頼して、何も持たない自分の手を差し出せばよい。

 肉を頼みにするとは、自分で積み木を積み重ねて天まで届く塔を建てようとするようなものです。ひとたび何か起これば、それらは崩れ去ります。そのようなものを頼みとするのではない。主なる神がご自身の御子を救い主として差し出しておられるのです。それも、私たちが天に向かって手を伸ばして握りしめていなければならないというのではありません。神ご自身の霊、聖霊が私たちを捕らえてくださり、神の御手が私たちを捕らえてくださいます。この神の御力を頼みとするのです。

 私たちは、自分で何もかも造り出さなければならないかのようにあくせく自分の力に頼ってしまいます。少しでも自分の持てるものを増やさなければならないと競争して、人と人とが争い、国と国とが争う。そうして、「富と共におぼれてしまう」ことが起こっているのではないでしょうか。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタイ16:26)。イエス・キリストを主として生きる、そこにおいてこそ人は真実に自由に生きるものとされます。そのために捨てるべきものを捨てることが必要です。そうして、ただ神のみを神とし、神の恵みによって生かされるものとされます。この福音の真理に固く立ち、信仰に基づいて神から与えられる義に依り頼んで、共に歩んで参りましょう。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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