日曜朝の礼拝「放蕩息子の帰還」

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放蕩息子の帰還

日付
説教
望月信牧師
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』(11~19節)ルカによる福音書 15章11節~24節

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 主イエスは、このたとえを通して父なる神から離れて遠い国に向かってしまっている私たち人間の姿を示しておられます。父親がまだ生きているのに遺産を求める、それは財産さえあれば父親などいなくてよいということでしょう。それと同じことを私たちはまことの神に対してしているのではないでしょうか。天地の造り主なる神から自然の恵み豊かなこの世界をいただいて、けれども「神さまは不要です」と言って、私たち人間は神無き世界を生きようとしています。すべてをお金に換えて遠い国に旅立つというのも、何事もお金に換算して判断してしまう今の社会の姿を指摘しています。そして、自分の思い通りに生きようとして無駄遣いをするというのも誰もが経験することでしょう。誰もが大なり小なり放蕩息子の中に自分の姿を見出すことができるのだと思います。

 ひどい飢饉が起こり、もはや財産のない彼は食べることにも困るようになりました。助けてもらえると思って身を寄せたところで豚の世話をさせられて、豚の世話はユダヤ人にとっては屈辱的なことでしたから、彼は親しい人からも裏切られました。こうしてすっかり行き詰まって、弟息子は「我に返」ります。「立ち帰る」「自分を取り戻す」という言葉です。父親から離れて自分の力で生きようとして、しかし、真実には自分を失っていたのだと気づいた。そうして、父親のもとに立ち帰る。聖書で教えられている「悔い改め」とは、このような「我に返る」こと、「立ち帰る」ことにほかなりません。方向転換をすることです。父親に背を向けていたところから、父親と向かい合うことへと向き直る。そのように、私たちには方向転換が必要なのです。神に背を向けて生きることから180度方向を転換して、神と向かい合って生きる。そこにこそ人としての真実の生き方があるのではないか。主イエスは問いかけておられます。

 この弟息子のよいところは気づいたならば素直なところです。彼はただちに父親のもとに帰ろうと決意します。そして、この父親は、弟息子を捜し回るのではなく、信じて待ち続けます。息子が一個の人格だからでしょう。彼がいろいろなことを考え、思い悩み、間違うこと、失敗することもある人間であることを認めているのです。ですから、ひたすら忍耐して待ちます。そうして待っている、だからこそ弟息子がまだ遠くであるのに、たちまち見つけて駆け寄り、抱きかかえます。父親は弟息子の謝罪の言葉を最後まで言わせることなく自分の息子として彼を迎え入れます。何があっても彼の息子であることに変わりはないからです。

 このたとえを聞いて、この父親は甘いと思われるかもしれません。しかし、このたとえの背後で、真実には主イエス・キリストが死んでおられます。父親の愛が語られる、その背後で、実はこの父親は血を流しておられます。大きな犠牲を払っておられるのです。すなわち神の御子イエス・キリストが十字架につけられて血を流しておられます。そこに神の愛が示されています。私たちが我に返る、立ち帰る。それは、この十字架のキリストを見ることから始まります。弟息子が我に返って立ち帰る。それは父親の愛を見ていたからです。父親の愛を信じることができたからです。私たちには主イエス・キリストが与えられています。主イエス・キリストの十字架に神の愛を見ることができます。私たちを迎え入れてくださるために、主なる神は大きな犠牲を払ってくださいました。私たちは、そこに示されている神の愛を信じて、神のみもとに帰ります。

 主イエス・キリストの父なる神は私たちを迎え入れてくださいます。私たちを一つも叱らず、ただ手を広げて、飛び込んでくるのを待っておられます。私たちを愛して、私たちを神の子と呼んでくださいます。このお方のもとで、私たちは真実に人間として生きることができるのです。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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