日曜朝の礼拝「最後の審判~使徒信条25~」

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最後の審判~使徒信条25~

日付
説教
望月信牧師
わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。(1,2節)
それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。(6~10節)コリントの信徒への手紙二 5章1節~10節

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 使徒信条は、「生ける者と死ねる者とをさばきたまわん」と告白します。主イエス・キリストがやがて最後の審判のために来られると言うのです。

 私たちが、最後の審判ということで抱く気持ちは、多くの場合、恐れであり不安でしょう。しかし、使徒パウロは、最後の審判について語る際に、「心強い」と言いました(6、8節)。この「心強い」は、主イエスが「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)とおっしゃった、「勇気を出しなさい」と同じ言葉です。パウロは、その「心強い」という言葉を用いて、キリストの裁きの座の前に立つとは不安を抱くことではなく、むしろ心強いことなのだと言います。それは、「天から与えられる住みかを上に着たい」(2、4節)とあるように、終わりの時に、天から与えられる住まいを着ることができるからです。私たちが裁きの座に立つときに起こることは、神の国から追い払われるようなことではありません。私たちをキリストの恵みが覆い包んでしまうことが起こります。キリストの恵みに覆われ、真白き衣を着せられて、裁きの座に立つのです。

 主イエス・キリストは、再び来られて裁きの座に着かれ、そこで初めて私たちの執り成しと弁護を始めるのではありません。真実には、すでに神の裁きは終わっています。すなわち、すでに十字架において御自身を差し出してくださったのです。神の裁きは、これから私たちが受け止めなければならないものではなく、キリストがすでに受け止めてくださったものです。それゆえ、私たちは罪に定められることがありません。その主イエス・キリストの恵みに覆われて裁きの座に立つ。ですから、私たちは心強い。慰めと励ましを確信することができます。私たちは、この救い主イエス・キリストが来られるのを、頭を上げて待ち望みます。

 聖書は確かに最後の審判を語ります。人の子であるイエス・キリストが栄光に輝いて再び来られると、すべての民がその御前に集められて、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分けます。羊を右に、山羊を左に分けて、右にいる人たちに天の国を受け継がせ、左にいる人たちに永遠の刑罰を与えます。それは、一つには、この世界を真実に統べ治めておられるお方はどなたなのか、明らかになるためです。神こそが真実に秩序を打ち立てる、義なるお方であると明らかにされ、すべてのものがこの主なる神の御前にひれ伏すことが起こります。

 もう一つには、裁きとは清められることにほかなりません。神の御前に完全に清くされるのです。裁きについて何を考えるべきなのか。それは、だれが羊であり、だれが山羊かということではない。自分自身が羊なのか山羊なのかということでもない。私たちは確かに主イエスの恵みによって神の羊とされています。しかし、罪ゆえに私たちの内にも山羊がある、その私たちの内なる山羊がすべてより分けられ取り除かれて、私たちはけがれなきまったき神の羊とされます。そうして、神の御前に真実に清いものとされます。それこそが、私たちにとっての裁きです。

 私たちは、救いに入れられてなお自分の罪を嘆かざるをえず、悔いて涙することしばしばです。しかし、終わりの時には、そのような私たち自身の内にある暗闇、罪がすべて取り除かれ清められます。だからこそ、ヨハネの黙示録は「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(21:4)と語ります。こうして、「生ける者と死ねる者とをさばきたまわん」とは、私たちを恐れと不安に陥れる言葉ではなく、キリストに結ばれて裁きの座に立ち、平安と喜びに生きることへの招きの言葉です。天から与えられる住みかを着たいともだえて、救い主であり裁き主であられる主イエス・キリストを待ち望んで、共に歩もうではありませんか。

説教要約について

説教要約は、説教を要約したものです。 音声は、説教要約の音声化ではなく、実際に行った子ども向けの説教と賛美歌、 聖書朗読と説教の録音です。一ヶ月程度、音声データも公開させていただきます。

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